思ったことメモ(特別編)/新・日本語

新・日本語とは

日本語はたえず変わっています。古語辞典を読むと、古語が全く別の言語のように感じられたりします。ですが、それを出発点として現在の日本語になったのは間違い無い事実です。「新・日本語」とはそんな風に日本語が変化していく様子を、秋田弁と若者言葉を使う私がちょっとしたフレーズから考察する、というすごく些細な企画。

若者言葉や日本語の乱れが気になる方に「若者はこう思い、こう感じているんだよ」という気持ちを伝え、若者言葉や日本語の乱れを全く意識しない方に「こう思われ、こう感じられているんだよ」という気持ちを伝えたいです。

知らないけど

「よく知らないけど、DQ8が今冬発売になるらしいよ」

「この式をこれに代入して積分変数を変えるといいみたい、よく分かんないけど」

こういった表現をよく耳にします。文章にするとなんだかすごく無責任な感じもしますが、口語ではそんなに違和感もなく聞き取れてしまいます。でも文章にすることで、変なことに気づきます。知らないのなら「知らない」と口にすればいいのに、図々しくも知っているように発言していることに。どうもおかしいです。

おそらくこの発言をした人は、噂話やちらっと見たりなどで情報を既に収集していて知っているのです。でないと「DQ8が今冬発売になるらしいよ」などと発言することはできないはずです。だったらなぜ「知らないけど」という言葉を付けてしまうのでしょうか。

単純に「提供した情報が誤りだった場合の救済措置」とも考えられます。「知らないけど」という言葉を付けておくことによって、「別に、この式を代入しなくても解けるよ」と指摘されても、「ごめんごめん」と謝れば済んでしまうからです。しかし、これは主な理由でないと私は考えています。本当のところは相手に迷惑をかけないようにするためではないでしょうか。内容はそっくりなのですが、救う対象が「自分」ではなく「話し相手」ではないかということです。もしその情報が間違いだった場合、自分が相手に迷惑をかけてしまうだけでなく、自分が話した相手がさらに別の人に伝え、二重三重に間違った情報が伝わってしまいます。

相手を思う気持ちの中で生まれた日本語。「知らないけど」という表現自体はちょっと変ですが、その背景には遠い昔から脈々と受け継がれてきた「謙譲の意識」あるいは「日本人固有の思いやり」があるのでしょう。十分な情報を持ちえていないにもかかわらず、できるかぎり相手に伝えようとする気持ちもにじみ出ています。やっぱりちょっと変ですが、いい言葉だと思います。よく分かりませんが。

04/08/20

あげる

「よしよし、泣かないでね、ミルクをあげるからね」

「タマ、待っててね、今エサをあげるからね」

最近はこういった表現が主流になってしまった印象さえ受けます。

「よしよし、泣かないでね、ミルクをやるからね」

「タマ、待っててね、今エサをやるからね」

本来の正しい用法は上記のようになります。赤ちゃんもネコも自分から見ると目下の存在に該当し、謙譲語を使う必要は特にありません。特に無いというより、寧ろ使うべきではありません。でも「やる」だとなんだかぶっきらぼうな感じがします。「あげる」の方が正しい用法なのですが……。

ここでは(私の中では)「文法」と「感情」が対立しています。上記のように文法の面では「やる」が正しいのですが、感情の面では赤ちゃんはかわいくて仕方がないでしょうし、ネコも愛らしい存在かもしれませんので「あげる」が好まれることとなります。

あらあら、泣ぐな、今ミルクけるがら

タマ、待ってれ、今えさっこけるがら

ちなみに秋田弁では「あげる」も「やる」も共に「ける」になるため、2つの文は上記のように書き換えられます。このように秋田育ちの私は「あげる」と「やる」の違いを意識することなく過ごしていましたから、違和感が無いように感じられるのかもしれません。それはさておいても、若い人たちやTVのタレントなどは「あげる」を多用していますので、既に市民権を得ている表現と言っていいかもしれません。私も嫌いな表現ではありません。

04/08/20

すいませんでした

「すいませんでした」

「うーん、今のはいいバッティングだったですね」

前者は若手の社員が上司にいかにも使っていそうな表現ですし、後者も何年か前から野球中継で解説の方がよく口にする表現です。この2つの表現に違和感を覚えないようでしたら、日本語力が劣ってしまっていますよ。「敬語ではない言葉」と「敬語」を一つの文に混ぜて使ってしまっていることに問題があるのです。

「貴様の注いでくださったお酒は、量が多くなっていやがりますね」

などと使ってみると明らかに変です。ここまでくると違和感のレベルを通り過ぎ、上手なイヤミのようにさえ感じられます。気のおけない友人などに対してでしたら、こんな使い方はおもしろいかもしれません。

ここで注意しなければならないのは「すいません」や「すみません」の用法です。「すいません」はもちろんのこと、「すみません」という語も敬語ではないため、「でした」という敬語をつけることはできないのです。「すみません」は敬語でないということだけは誤解しないようにしましょう。

「すみません」は感謝、謝罪、依頼、挨拶など、非常に意味が多く気軽に使いやすい言葉です。しかし使いやすいようでありながら、意味が取りにくく誤解を生みやすい言葉です。感謝の意味で「こんな立派なものを頂いてしまって…、どうもすみません」と知り合いの方に使うのなら問題はないようですが、赤の他人から「すみません」で感謝の意を表現されると気分を害される方もいるみたいです。

「申し訳ございませんでした」

「うーん、今のはいいバッティングでしたね」

としておいた方が、今のところは無難だと思います。敬語は乱さない方がいいでしょう。基本的にこういう言葉を使わざるを得ない時には状況が良くない場合が多いです。

04/08/21

何気に

「あの髪型、何気にいいね」

「この本、何気にすごい」

私は「何気に」という言葉を、何気なく使います。もちろん相手を選んでです。「何気なく」と「何気に」を何気なく区別して使っていますから、二つの語を取り違えたことはありません。

一般的な形容詞の「何気ない」には、「深い意図がない」と「さりげない」の二つの意味があります。これはもちろん私も納得しています。ですが、私の場合、若者言葉の感覚を持ちながら話す際には「何気ない」は「深い意図がない」の意味でしか使いません。そして「何気に」には「さりげない」の意味があり、「何気ない」を補完します。このように、まず意味の違いがあります。

そして「何気に」という語は若者言葉の語彙の貧弱さをカバーしてくれます。すげぇ、結構、まあまあ等の程度を表す言葉が若者言葉にも様々ありますが、「何気に」は結構とまあまあの中間に位置するくらいの強さの程度を表します。結構と表現するほどでもないことですが、まあまあと表現するのは忍びないという際に何気にを使います。私はそんな感覚です。

ですから「あの髪型、結構いいね」と言う程度の髪型でもなく、「あの髪型、まあまあじゃん」と言うには忍びない、その中間ぐらいで「あの髪型、何気にいい」と表現するのです。凄く便利で、一気に普及したのもうなづけます。今ではパソコンでも一発で「なにげに」から「何気に」の文字変換ができます。

私はこの言葉が何気に好きなので、世の大人の方々、どうか大目に見て下さいませんか。

04/09/08

見れる

「この位置からだとよく見れる」

「明日なら来れる」

「ら抜き言葉」の存在はもう言うまでもないことでしょう。この言葉は改まった場では使いにくいですが、一般的に使える言葉として普及してきています。意味をはっきりする効果があるためです。以下、詳しく説明します。

助動詞「られる」には受身、尊敬、自発、可能の四つの意味があります。ここで、「見る」の尊敬語は「見られる」ではなく「ご覧になる」で、「来る」の尊敬語は「お見えになる」ですから、「見られる」や「来られる」は尊敬の意味ではありません。また、「見る」や「来る」という単語は心の動きとおおよそ関係が無いので、自発の意味でもありません。ですから「見られる」「来られる」には、使役と可能の二つの意味が考えられます。同様に「乗る」のように尊敬語が特別な変化をしない場合を考えると、「乗られる」には尊敬の意味も考えられますから、「乗られる」には使役、尊敬、可能の三つの意味が考えられます。

このように「られる」を使うと複数の意味が考えられるために、「見れる」「来れる」「乗れる」のような「れる」の語も考えるのです。そしてこれらには可能の意味だけを持たせるのです。そうすることで「られる」で考えなくてはいけない意味が、「見られる」や「来られる」では使役のみ、「乗られる」では使役と尊敬のみになり、意味を取りやすくなります。これが「ら抜き言葉」の正体です。

ただし「ら抜き言葉」は使ってもいいでしょうが、「ら無し言葉」になってはいけません。「見れる」のような表現しか知らない人間になってしまっては大きな問題です。このような背景をよく理解し、「ら」を無くすのではなく、それを踏まえて抜くように心がけないといけません。

04/09/08

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