思ったことメモ(特別編)/社会心理学

本能説と模倣説

人間の行動の理由について説明した2つの初期の説。ただし、現在はそのどちらも採用されていない。本能説には「行動が全て無学習のうちに行われなければならない」という矛盾、模倣説には「まねをする元になった最初の1人がいる」という矛盾がそれぞれある、といった内容の講義。

確かに本能と模倣は矛盾が生じますが、着眼点としては素晴らしいと思います。私は「人間は何を基準に行動するか」といったことをずっと以前に考えたことがありますが、自分においては経験と感情が大部分の行動の根拠になっているということです。私たちが出合う事象は基本的にこれまでに経験したものです。別に直接に経験したことがなくともそのことについて見聞が多少なりともあれば、それを広義の経験とみなすことができると思います。私たちの行動に大きな影響を及ぼす先入観は経験無しにはありえないことですよね。

具体的な例として「これまでに誰も遭遇したことの無い宇宙物質が、目の前に五感で知覚できる状態である」と考えてみることにします。果たして人はどう行動するでしょうか。私はその物質に対しての先入観に従って行動をすると思います。つまりなんだか面白そうだったらいじってみたくなるでしょうし、なんだか気持ち悪い毒々しい色をしていたら近寄りがたくなるでしょう、ということです。こんな感じで、大体の行動は経験で説明できると思います。

ただし、経験ではどうしても説明のつかない場合も数多くあると思います。「突発的な怒りで目上の立場の人を殴ってしまう」という行為等が挙げられます。経験上では目上の立場の人を殴る行動はとってはいけないと大多数の人が思っているに違いありません。ですが、殴ってしまったのは感情が経験を支配した状態になったと考えると納得できます。このように感情も、時には経験以上に行動を支配します。

経験と感情の他にも行動の基準になっているのが多々あるでしょうし、だからしばしば戸惑ってしまうんでしょう。経験も感情の表現も乏しい乳幼児(私は、子供が小さいうちは感情表現が乏しいと思っています。例えば「歯痒い」といった感情は小さい子どもには無いと思いますし、理解もできないと思います)が突発的な事象にどう行動するかは興味深いことですね。その調査が、もしかしたら種としての人間本来の行動に迫る手段かもしれません。

社会化

社会化はその集団の中でのアタリマエを身につけてゆくこと。

日本人は朝にはご飯のとき味噌汁を食し、「おはよう」と挨拶する。

そしてアタリマエはいい意味としてのものでなくとも構わない。

ヤクザやギャングの世界、スラム街などにもいい意味としてではないがアタリマエがある。

そのアタリマエには意味が無くとも構わない。

日本人は朝に「おはよう」と言うが、「何故おはようと言うのか」とか「おはようには何の意味があるのか」と考えることは無く、そう言うことがアタリマエだから言っているだけである。

人はこの世に生を受けると選択の余地無く所属し、その集団のアタリマエを学び、それが自我形成に多大な影響を及ぼす。

カトゥーは秋田県南のとある家に選択の余地無く所属し、秋田弁を使う、納豆にはオクラを混ぜる、基本的に小遣いは無い等といったその家のアタリマエを学んで育たざるをえないことになる。それが、カトゥーの今日ある自我の形成に多大な影響を及ぼすことになる。

といった内容の講義。特に納得した項目もありますが、まあいいや。

私が「社会化」という言葉から何を連想したかというと、子どもの教育です。DNAが影響するとはいえ、育った環境が子どもの成長にDNA並、あるいはそれ以上に大きな影響を及ぼすことは容易く想像できます。「子は親を見て育つ」と言われているように、周りの子どもは自分に感化されてしまいます。反面教師という言葉もありますが、それは子どもが物心ついて初めてそのように行動できるのだと思います。小さな子どもに悪影響を与える行動は避けたいものです。

社会化はアタリマエを身につけていくことですが、そのアタリマエを知らない人は社会から社会構成要員として認められない、あるいは社会から淘汰されることになりさえします。日本におはようと言えない人がいたとして、この人が日本で勉強したり働いたりといった社会的な活動をすることができるでしょうか、いやきっとできないでしょう。日本人全員がこの人を日本という社会の構成要員として認めてくれるでしょうか、いやきっと認めてくれないでしょう。文句を言われたり注意されたくなかったら、アタリマエを知り、そう行動しなければいけないのです。

また、社会化について考えて気付いたことですが、子どもが所属していく集団を徐々に大きなものにしていくよう配慮することはきっと大事でしょう。小さな集団(家族、友人等)の中では認められるのは比較的簡単ですが、大きな集団(会社、日本全体等)では認められるのは非常に困難です。子どもたちにはより大きな集団へ認められるように徐々にステップアップしてほしいですし、自分もそうありたいものです。

本来、小学校、中学校、高校……と行動範囲が自然に広がっていくものですが、ネットの存在があり、現在はそうとも言えません。所属した集団が狭く経験も浅い人は残念ながらWWW上では口の悪い「自称大人」に非難されてしまいがちです。自分の経験が浅く、知識も無いのであれば致し方無いことです。自分の経験が浅いことを棚に上げて、逆ギレするような行為は論外です。色々な人がいる、それがおもしろいのです。ネットをする子どもたちにはたくさんの人を許容できる人間に成長して欲しいです。注意してくれる人でさえも許容できるような人間に。

レイベリング(ラベリング)

レイベリングはラベリングとも。主としてマイナスのイメージを一方的に押し付けること。イメージを押し付けられた本人はそう振舞わざるを得ない状況に追い込まれ、いわゆる予言の自己成就効果を生み出す。「一度犯罪をしてしまった者は前科者とみなされ、もう一度犯罪を犯すような状況に追い込まれてしまったりすること」等が例として挙げられる、といった内容の講義。

これまた指摘されるとその通りですが、普段は特別意識するものではありません。ですが、私は今までどれほどラベリングを行ってきたのかと考えてみると、恐ろしいです。私は「経験に基づく先入観が人間の行動の重要な指針となる」と書いているように、これまで先入観は大事なものと考えていました。ですが、先入観ってこのように恐ろしいものでもあるんですね。画一的あるいは単純な思考に人を陥らせてしまうことでしょうか。人間の行動を決定する基準ということは、裏を返せば人の行動を制限するものでもありうるということです。例として思いついたのは「食わず嫌い」です。それは見た目、においなどの五感で知覚した結果として、一応れっきとした食べ物なのにその食べ物は食べるべきでは無いと本人が決定してしまうことです。うに、なまこなどのグロテスクなものを最初に食べた人はすごいと思います。何の知識も無い人にとっては、うにとなまこはあんなにとげとげした中に入ったなにやら黄色いどろどろしたものと、ぬめっとした何だかうごめく物体なんですよ。その先駆者たちのおかげで私達は安心して色々なものを食べているのですね。

先入観の話は若干ラベリングとは関係ない話かもしれませんので軌道修正。ラベリングはいけないことなんですが、どうしても私達はやってしまうんです。マスコミが政治家が○○をしたとか、医者が○○をしたとか報道すると、私は「オマエらはまたか」とついつい考えてしまうんです。政治家の年金未納者、秘書給与流用者がぞくぞく現れると、実際は全ての国会議員がそうではない可能性も大いにある(もちろん、全ての国会議員に問題があるという可能性が拭いきれたわけではありません)のですが、全ての国会議員に問題があるかのような錯覚に陥ってしまいがちです。この世の中にはラベリングが溢れています。近頃の若いもんがとか、これだからガキはとか言われるとあまり怒りをあらわにしない平和主義者の私でもカチンときますしね。昔は良かったということが基本的には過去の神話化にすぎないのにそのことに極端に縛られ、「昔の子供は○○だったが、今は○○だ」と社会全体で子供を非難してみたり……。私達はラベリングには注意しなくてはいけませんね。本当によくしてしまいがちですから。

レイベリング(ラベリング)は他者の反応の結果

社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが『違反者』に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また、逸脱行動とは人びとによってこのレッテルを貼られた行動のことである。

ベッカーの言葉を引用しましたが、これが全てを物語っています。レイベリングの特徴は「逸脱とみなされる側がなぜ逸脱とみなされるか」を考えるだけではなく、「逸脱とみなす側がなぜ逸脱者とされている人を逸脱とみなすか」ということを考えたところが画期的なところです。

具体的な例を挙げます。ある学校で遅刻する者が目立っていて、先生たちがなんとか減らそうとしていたとします。そこで何が遅刻かを「厳密に定義」し、遅刻者には「ペナルティーを与える」ものと決めたとします。この場合も「レイベリング」が行われます。「○時○○分までに校門を通過する」「○時○○分までに教室の所定の席に着席している」等といった厳密な定義をすることで、チャイムから秒単位で遅れただけでも遅刻になります。グレーゾーンでなんとか網をかいくぐっていた人たちは遅刻とみなされるのです。このように相互の関係がやはり大きな要素を占め、先生たちが遅刻を厳密に定義しなかったら際どい人はセーフだったでしょうし、生徒がもっと遅刻に対し真摯な態度で臨んでいたら遅刻者は当然少なくなっていたでしょう。更にペナルティーによって遅刻者が逸脱者とみなされ、できのいい生徒とは区別されます。

逸脱とは、他の何にもまして、ある人間の行為に対する他者の反応の結果である。

とベッカーが述べていることからも分かります。遅刻の例など、まさにベッカーの引用の通りになっていますね。レイベリングは他者の反応の結果に過ぎないのです。ややこしい言い回しですが、「ある人が悪い」のではなく「ある人が悪いとみなされる」のです。その人は悪いとは限りません。だからといって、私は遅刻を肯定するわけではありません。遅刻している自分を正当化するつもりはさらさらありませんが、心の奥底にはあるのかも、って書いたところでどないやねん。

逸脱の継続性

少年隊の東が好きな私、本を読んでいる私、全部が集まって私の人格が形成されているんです!

と、ドランクドラゴンの塚地がコントで言っている通り、それぞれの人にはたくさんの自分があります。学生としての自分、バイトをしている自分、サークルをしている自分、ネットをしている自分などなど……。私の場合はそうではありませんが、有名人などはそのうち特定のものだけが注目されることがあります。野球をしているイチロー、小説を書く綿矢りさ、泣いている徳光などなど……。

これと同じようなことがレイベリングでも起こります。本来たくさんの自分が内にあるはずなのに、犯罪を犯したり、メディアで槍玉にあげられるようなことをするとそればかりが注目されてしまいます。このため逸脱者が生まれやすく、長いスパンにわたって逸脱が継続するのです。

また、逸脱が長い期間にわたって続いてしまうのは、一つの自分だけが注目された結果だけとはいえません。更なるレイベリングが行われたためです。「警察などの公的機関」「TVなどのメディア」から逸脱とみなされると、それだけで済まされるなんてことはありません。必ずその一次的な逸脱を知って、何かを感じた人によって二次的な逸脱が行われます。これでさらに強く逸脱者とみなされることとなります。

スティグマ

逸脱はみなされる側だけではなく、みなす側にも大きな関係があることは既に述べた通りです。みなす側とみなされる側にはどのようなタイプの人が多いのかこの文章の例から考えてみますと、みなす側には教師、警察などの公的機関、TVなどのメディアなどがあり、みなされる側には生徒、犯罪者、メディアで槍玉にあげられるようなことをした人などがいます。分かりやすいことですが、前者のグループは後者のグループよりも上の立場にあると思われます。

この場合のスティグマとは、その人に与えられた社会的に印象の悪い属性や、その属性についたマイナスイメージのことです。これは弱者が逸脱とみなされるときにあらわれます。聖痕と言われることもありますが、ちょっとしたSF好きの私には違う意味(神の思し召しを示している手に浮かんだ傷跡とか)に取られてしまいますから、スティグマとしておきます。

当然、遅刻した生徒は自分のことを悪いと思っています。なぜ自分が遅刻したんだろうかと原因を探ってもいるでしょう。今度は絶対に遅刻しないようにしようと決意してもいるでしょう。ですがどれだけ心のうちで反省しようとも、先生には「遅刻」した者とみなされぐだぐだと説教されることとなるでしょうし、説教された先生以外からも「遅刻はするな」とちくちく言われることとなるでしょう。

これくらいならまだかわいい方で、重大な犯罪を犯した者はもっと深刻なこととなります。どんなに心が澄んでいて反省していようと、社会全体から非難されることとなります。確かにそれだけのことをしてしまったのですが、殺人事件の犯人の扱いなどは可哀想でもあります。

この二つの例では逸脱とみなされる側は自分の非を認めざるを得ない上、立場でも弱い側にあるので、逸脱とみなす側に一切文句は言えません。「なぜそんなに言われなくてはならないんだ!」と思ってみても意味は無く徒労に終わり、「悪いことをしたからだろう!」と言われるのは目に見えています。場合によってはさらに非難が大きくなることも考えられます。だから黙るしかないのです。ただじっと耐えるしかないのです。

これがスティグマの実態です。本人の非、あるいは非が一切無くとも社会的に印象の悪い属性(障害、同性愛、フリーターなど)を持っている人は否定的な反応で周囲の人から見られるのです。それは本人もその属性については色々と思っていることでしょうし、他人からああだこうだ言われるとつらいものでしょう。

動機

とりわけ犯罪の動機は基本的に本人の意思をそのまま反映することはない。それは、動機の言語化が非常に困難であったり、動機が動機として相手に伝わるには相手と分かり合える存在同士でなければならないから。といった内容の講義。

唐突ですが、自分が高校に進学した時の志望理由、あるいはまだ進学していない方は行きたい高校の志望理由を100%相手に伝えることができるでしょうか。私はできませんし、できるはずが無いと思っています。自分の心の内の全てをを相手に理解させることは無理だと思います。また、そもそも動機の言語化に意味があるのでしょうか。人がある行動をとったときの理由を全て受け入れられる人などいるのでしょうか。

例えば「万引きという犯罪を犯したときの動機」を考えてみることにします。この世には十人十色どころか、数十億人の人がいるために動機も様々考えられるところです。お金が無い、お金を払いたくない、その店に恨みがある、スリルを求めて、何かむしゃくしゃしていた……。こんな感じで動機など山ほどありますよね。ここで「雨が降るたび、万引きせずにはいられなくなる」と言う人がいたらどうでしょうか。もちろんその本人は精神鑑定をもくろんでのことでは無く(万引きでそんなことをする人はいないでしょうが)心の奥底からそのように考えているものとします。皆さんはこの考えを理解できますか。でもそんな人が存在する可能性がゼロとは言えないことは理解いただけるかと思います。こんな人が現れたら、犯人は常人には理解できないことを口走っている、として片付けていいのでしょうか。

ここに犯罪者が動機を相手に伝える際の問題点がおぼろげながらも見えてくるかと思います。動機は相手に理解されるものでなければならない、と。動機は自分の心の内を伝えるものではなく、一般的な犯罪の動機の中からこの場合にふさわしい動機を選択させられているだけではないか、と。

「社会心理学」のおわりに

講義でなかなか参考になる話を聞けたので、普段考えたことの無いことについて深く考えることができました。この話については真面目に受け取ってもらわなくとも一向に構いません。「へぇ」と思ってくださるだけで結構です。本来そんな学問であるということを、講義をした教授が言っていました。この話は一体「何へぇ」もらえるのでしょう。自己採点36へぇ。頑張ったので見て欲しいから。

04/09/16

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