思ったことメモ(特別編)/色覚異常

障害

色覚異常の方から直にお話をうかがう機会がありました。赤と緑のコントラストが一般の人よりもはっきりしない、という障害だそうです。このことで日常生活に特別な支障は無いそうですが、それにもかかわらず色覚異常者と言われたそうです。ネットで広告が入りすぎたWebページや、派手派手な壁紙や素材を多用しているWebページ、地図帳で緑の平野の上に赤で文字や記号を記載している場合、東京や大阪の地下鉄の路線図、そのくらいだそうです。特に見難いと感じるのは。でもそのくらいだったら私もそう思いますよ、それらは見難いと。

なぜその人は「色覚異常」といういかにも障害がありそうなネーミングで「色覚異常者」というレッテルを貼られ、障害があるとされるカテゴリーに分類されることとなったのでしょうか。

障害についての無理解

残念ながら私を含め、私達は障害についての理解があるとは言えません。その障害を実体験したことが無いからです。ある人が障害者と聞くと、「どんなに苦労してきたのだろう」とか「差別や偏見があったのだろう」、「私達は障害について考えないといけない」等と考えがちです。特にテレビドラマでは顕著で、よく実感できます。聴覚異常の人、車椅子の人などは得てして主人公、ヒーローやヒロインになりがちです。なぜ車椅子の通行人、エキストラがいないのでしょう。不思議ではありませんか。

障害を体験したことが無いために「身体の状態」「何ができるか」「どんな社会的不利益が生じるか」の三つを切り離して考えるべきなのに、そうできないのです。「車椅子の人」を見聞きしたとします。車椅子は身体の状態を示していますが他の二つのこともついつい連想してしまうのではないでしょうか。そしてこの考えが、障害を持つ人をさらに障害者たらしめてしまう要因の一つになっているのではないでしょうか。

Mr.Normalの存在

Mr.Normalとは普通の人です。この「普通」というのが問題で、普通の人がいるから前述したような人が障害者となってしまうのです。これはどんな些細なことでも構いません。障害でなくとも構いません。ちょっと人見知りをしてしまう等といったレベルでも。実際、全ての要素において水準以上という人などどこにもいないのですが、Mr.Normalを私達が心の中に存在させてしまって、コンプレックスを抱いて悩んだりするわけです。障害者が障害者とされてしまうのもそれと同じことです。

しかし、心の中からMr.Normalを消すのはたやすいことではありません。では私達はどうすればいいのでしょう。私は、社会全体がハードルを下げることで大部分は解決できるのではないか、と思います。いわゆるバリアフリーです。もし街から段差がなくなったり、広いトイレができたり、広い通路ができたりすれば車椅子の人は今以上にMr.Normalに近づいて生活できるでしょう。このバリアフリーは車椅子の人にだけ効果を発揮するのではありません。子供やお年寄り、あるいは酔っ払いにまでも。障害者に気を使い社会全体がハードルを下げれば皆が暮らしやすくなると思われます。この種はそこらじゅうに落ちています。例えばその方は、「ドアノブを今までの丸いタイプからレバー系のタイプに変えることで、手首を痛めている人、異常のある人がMr.Normalに近づけるかもしれない」と言っていました。それだけでなく買い物帰りの両手がふさがったおばちゃんにも優しい社会が出来上がるでしょうし。こんな些細なことからどんどん改善されて欲しいです。いや、ドアノブは盲点でした。なるほどね。

でも一番大事なのは心のバリアフリーです。それは間違いないです。

検査

閲覧者の皆さんも検査を経験したことがあるのではないでしょうか?私も小学生の時にしましたが何年生なのかはちょっと忘れてしまいました。ですがなんだか異様な雰囲気だったので今でも少し覚えています。私の場合は学校の図書室で行われたと思います。そして丸がたくさん描かれている中に数字が浮きあがっているような絵を見せられました。検査の結果については覚えていません。覚えていないということは正常だったのでしょうか?そうであると信じたいですけど……。

検査に用いられたような画像

手書きなので雰囲気が上手く伝わったか不安ですが、このような絵を見た事はありませんか。

この方はこのシステムに大きな問題がある、と言っていました。

検査の公開

検査している姿や検査の結果等、検査そのものが公開されたものであったということです。この方は大勢の生徒、教師が見ている前で「あなたは色弱です」と発表されたそうです。これってどうなのでしょうか、ひどくありませんか。検査結果の公開はプライバシーの侵害に当たるはずです。このことが話題になり対策が採られたのが1990年代に入ってからだそうです。私はその期間小学校に行っていましたよ……。つい最近の話なんですね。

早期告知

先ほども述べたようにこの方は検査後にすぐ「あなたは色弱です」と発表させられたそうです。そして更に、進路指導でこう言われたそうです。「色の変化が見分けられないから医師や薬剤師、工学研究者、印刷・出版関係、パイロットや電車を運転する人などになるべきではない」と。たかが赤と緑のコントラストがはっきりしないだけでこれも厳しいですよね。10代のうちに将来の仕事を制限され、あなたはまっとうに仕事ができないと言われたわけですからね。

この方は寛大な方で「色のコントラストが分からないなら仕事の向き、不向きがあるのはしょうがないから、このことはまだ許せる」と言っていました。ですが、色のコントラストがはっきりしないと大勢の前で言ったのに、相変わらず黒板ならぬ緑板に重要なところを赤チョークで書く教師の存在は納得できなかったそうです。色覚異常が「どう異常なのか」誰も考えず、異常にならないような配慮にあふれた社会の構築は全くなされていないし、「ならばどうすればいいんですか」の問いに答えてくれる者は誰もいなかったそうです。眼科医は「……の仕事にはつくな」と言うだけで、「……を改善しよう」とポジティブなことを言うことさえ無い。伝えると同時にこれから何をすべきかの指針を教えてくれないと、単なる未来の否定になってしまうのではないでしょうか。「緑板に赤チョーク」という話はすごくリアリティがあり、それだけ心にぐっと残った言葉です。

告知とは何か。この方が言いたかったのはそのことだと思います。何の意味があるのでしょうか。当然、単に伝えることではなく、少なくとも言わないよりも言った方が有意義な時間を過ごせるようなものであるべきです。

検査内容自体の非合理

緑系の丸の中に赤系の丸がぽつぽつとあって、文字が浮かんでくるという画像。これを見せられて、質問に答えた結果が「異常」というものであれば、どこか釈然としないのは当然のことでしょう。このような抽象的な検査は非現実的で、「だから何?」と突っぱねたくなるのも分かります。

更に、非科学的。「色覚異常が原因で車の事故を起こした」等と分かるものでしょうか。事故が色覚異常が原因で起こったのか、他の原因でおこったのかは誰にも分からないと思います。それよりも不注意や飲酒などが他の大きな要因に隠れてしまっていて、表に出てこないのかもしれません。色のコントラストがはっきりせず間違えるということがあるかもしれませんが、調べることなどできるのでしょうか。調べる際に感覚的なことが結構入ってきてしまうのではないでしょうか。

差別

この方はよく「これ何色に見える?」と聞かれたそうです。最初のうちは「赤と緑のコントラストが普通の人よりはっきりしないだけ、色ははっきり見える」と丁寧に答えたり、他にも色々と答えていたそうですが、最後には面倒になってきてこう答えるようになっていたそうです。「見えるよ、色盲じゃなくて色弱だから」と。

ここに大きな問題があったことに気づいたそうです。「自分を普通の人と同じ枠組みに入れるために、さらに色が区別できない人と自分を区別してしまっていた。ここに心の奥底にある差別の気持ちがあったのだ」と。私は○○だけどあの人よりはマシ、という考えですね。

また、この方は高校の時に作文で以下のように論を展開していたそうです。要約した内容をここに書きます。人のことは言えませんが高校生らしい文章ですね。

  1. 私は色弱と言われた。
  2. 生活に支障は無いが、将来の仕事は限定されてしまっている。
  3. 色弱でさえこれほど仕事が限定される。他の障害を持つ方はもっと大変だろう。
  4. 私達は障害について考えていかなければならない。

この作文を読み返して同じようなことに気が付いたそうです。「自分のことは分かってもらえるだろうという考えを持っていながら、やっぱり他者のことは分からないし、どんな苦労があったのだろうと勝手に想定してしまっている」ということに。自分を救う、あるいは慰めるため、他者を気づかぬうちに差別することになってしまっていた。これは恐ろしいことながら、悲しいことでもありますね。本人が悪いことをしたと気づいていないから更に厄介です。差別とは相手と自分が違うから生じるのではなく、相手と自分を違う人と感じてしまうから生じるのですね。

「色覚異常」のおわりに

この方に関連したうろ覚えの話はこれでおしまいです。この話を聞いた私達は何を思い、どう行動するべきなのでしょう。ちょっと考えさせられるものがありますよね。

まずバリアフリーといいますか、ユニバーサルデザインといいますか、これを今の社会にどんどんと浸透させていくことです。このことが障害のある人のみならず、一般の人にもいい効果をもたらすということは前述したとおりです。

また他者を尊重することも大事ですよね。相対評価の下で必ず生じてしまう落ちこぼれ、これはしょうがないことなのです。もっと具体的に言えば、セ・リーグとパ・リーグには毎年必ず生じる最下位、これもしょうがないことなのです。ですが前者と後者は次元が違うこと、前者の方がどこか大きな問題だと個人的に感じます。これは前者は尊重されにくく、後者は支えているファンが健闘を称えている、つまり尊重を忘れないからだと思います。ちょっと違うかもしれませんが、差別についても同じことが言えると思います。尊重すれば、差別はほとんどといっていいほど起こらないのではないでしょうか。

人は皆違うというのは当然のことですが、私達はあらためて認識すべきですね。Mr.Normalなど心の中にしかいません。違うのを当然と思えば、違っているからといって特別何も思わないはず。

関係ないですが、折角なので思ったことを書きます。赤とか、青とか、黄色とか、様々な色がありますが、他の人にはどう見えているかというのはやっぱり分からないんです。極端な話ですが、自分はを赤だと思っていますが、を赤だと思っている人もいるかもしれませんよ。他の人が見えているという色を、その人だけがのように一生見え続けるのであれば、あり得ないとは言い切れません。

ちなみに色覚異常は男性に多くみられ、約5%の人々にもなるそうです。単純に考えます。日本の人口を1億2000万人として…、その半分6000万人を男として…、その5%は300万人ですね…。あ、秋田県の人口の約3倍!かなりの人数ですね。これだけの人が同じようなことを思うようになるのは避けたいものです。まるでネットの大海原に向かって叫んでいるようなものですが、言わないよりはマシなので長々と主張してみました。

04/07/03

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