秋田の方言メモ/#41から

#41まじら便

秋田県の横手市には「かまくら」というお祭りがあります。内容や詳細はさておいて、名前は全国区のものであろうかと思います。雪を盛り、中をくりぬいて数人が入れるようにしてあるドーム状のものです。中は風をしのぐ程度なのですがそれがとても大きく、体感温度でかなり違うように感じます。「あまえっこ飲んでたんせ」(標準語訳は「甘酒飲んで下さい」)なんて言葉でもてなすのです。

その「かまくら」を出張して作ってくれるというサービスがあります。さらには「ミニかまくら」と称した小さいキットを一揃え、クール宅急便で送るというサービスまであります。「ミニかまくら」のお値段は2000円だそうで、微妙なところですが、手が出ない金額でもないといったところ。物好きな方は買ってくれるような値段です。

このサービスがあることは以前から知っていたのですが、このサービスの名称を最近知ることとなりました。「まじら便」と言うそうです。

このセンスには驚いてしまいました。「まじら」という言葉はなんとも説明しにくい感覚なのですが、順を追って説明します。

まじら」というのは最近はとんと聞かない言葉で、「まちくれ」という言葉の方をよく使います。

そして「まじら」「まちくれ」というのはそれそのままでは使わないで、何かを伴って使うことになります。例えば「味噌漬けどご、味噌まちくれ送る」(標準語訳は「味噌漬けを、味噌ごとそっくりそのまま送る」)と使うでしょうか。このように「ある状態を保ったまま」という意味になるのです。

味噌まちくれ送る」は「味噌ごと送る」と言えば事足りそうですが、ネイティヴの感覚からするとどこか違う。「ある状態を保つ」という感覚が表現されていません。かといって「味噌をそっくり送る」と言っても何か違う。今度は「味噌」を送るようなことになってしまい、「味噌漬けを送るんだけど、味噌付き」という「付いてくる」という感覚が表現されていません。

リンゴ皮まちくれ、く」は「リンゴを皮ごと食べる」で表せているので、この場合の「まちくれ」と「ごと」は一致しているようです。こういう場合もあるようです。

恐らくは「まじら便」というのは「雪まちくれ送る」ということを言いたいのでしょう。「まじら」という言葉に「横手の雪をそっくりそのまま」というイメージと、「かまくらのキットをあれもこれも一揃え」というイメージをぎゅっと詰め込んでいます。

問題なのはネイティヴが説明しないとさっぱり意味が通らないということですね。いや、それでは解決していません。私が説明したところでこの言葉が意味する感覚まではちょっと。

私も「まじら便」と聞いたときにすぐ反応できませんでした。「横手の雪をかまくらのキットごとそっくり…」と聞いて、「はあ…」となりました。ネイティヴでさえこれなのです。この面白さが伝わらないことのもどかしさ。「デューク更家」というウォーキングを専門としている方がいますが、「デュークさらえ」なんていうシャレも通じません。「さらう」は走るという意味になります。

日本人は「である」ことを重視する、ということをどこかで聞いた覚えがあります。例えば、「方言である」だけで滑稽だ、「田舎である」だけでのどかだ、「政治家である」だけで先生だ、などキリが無いほど挙げられます。

恐らく、アイヌ民族などの例外はありますがほぼ単一民族国家であり、その共通認識が多くあったために同じ言葉からは同じイメージを引き出すようになっているのでしょう。「エビがシャキシャキする」なんて言ったら首を傾げられます。「エビはプリプリする」と決まっているのです。

どこか秋田弁に頼りすぎていないか、田舎のイメージに頼りすぎていないか、そんな気がするのです。「秋田」だから何なのか、「かまくら」だから何なのか、この問いの答えがあるのならいいのですが……。

でも昔から「である」ことには意味の無いものと決まっているのです。日本人は「こんにちは」と言うのです。「こんにちは」という言葉の深い意味など考えずに。だから仕方ないと言えば、それまで。

私は秋田が好きです。でも「ふるさとである」からかもしれません。今年はそんな秋田をなんとか「皆まちくれ伝える」ことができるといいですね。

05/01/04

#42お年玉が怖い

正月を迎えることとなり、特に何も考えることなく帰省しました。往復で7000円ちょっと、3時間ちょっとで帰ることができるところに住んでいることを幸福と思わなくてはなりません。片道で30000円以上もかかるところに帰る人も周りにはいるようです。

ちょっと面倒なのですが、毎年帰ることにしています。理由をはっきりとは言えませんが、なんとなく義務かなあと思っているからです。もし帰らなかったら家族が私の陰口を「今年、おらえのな帰ってこねがったもんだ」と、ぐちぐちと言うに違いありません。そこが田舎の困るところで、周りとの調和があってそれでやっと腰を落として暮らせることになるのです。

私の実家の2軒隣の家には現在誰も住んでいません。一昔前に家を購入したものの、その借金で首が回らなくなり、その家から出ていかなければならなくなったのだそうです。今回帰省した際にそう聞かされました。そんな感じで周辺の変化を聞かされます。

ああ、家の前さ雪もさっと積もってらな…

足跡ねえもんだな。猫も歩かねえんだべがな…

今、なんとしてるべなあ…

その家の前を通るたびに聞かされてはたまったものではありません。私はこういった文化だから仕方が無いと割り切っているのですが、これに馴染めないものは去っていき、二度と戻らないのでしょうね。何にも無いところでは、去るものはあっても来るものは無いのです。

帰ったら自分の仕事をこなすことができません。環境なり、ツールなり、移動手段なり、色々と揃って初めてなにかができるものですが、それが何一つ揃っていません。ぼうっとしながらただ時間が過ぎるのを待つだけです。かつて自分の部屋だった所が物置状態になっています。これで「帰って来い」と堂々と言う心理。

この時にふと思ったのが、時間は「流れる」ものなんだなということ。時間は逆行することが無いから。「進む」でもいいのですが、「戻る」ことができそうですし、やっぱり「流れる」です。流れ出たら戻れないイメージが私には確かにありました。覆水盆に帰らず、と言うように、流体だったらもう取り返せない気がします。時間は物質として捉えることができるなら流体なのかな。

と考えているうちに「おめ帰ってくるから、ままいっぱいあるど!あさまかしてらながらけよ!」と言われました。そこでふと思ったのが「かす」ってどういう意味なんだろうかということ。思えば結構言われていたような気がしますが、詳しい意味が分からない。「お前が帰ってくるから、ご飯がいっぱいあるよ!朝に『かした』のから食べなさい!」と言われているのですが、どうもはっきりしません。「かす」は「炊く」なのかなあ、と直感をはたらかせますが、そんな安易な結論でいいのかと思う自分がいるのも確かです。これもやっぱり調べようがないのです。

と思いましたが、やっぱり調べようと思い母にメールをしました。終止形は「かしぐ」のようで、意味は「炊く」だそうです。辞書にもありますが「炊ぐ」なんて秋田以外では聞いたことがありません。

そして元旦といえば、年賀状もありますがとりあえずはお年玉。年賀状はもうメールにおされて衰退していく一方でしょう。とりあえずはお年玉。頂きました。

これは手付金、あるいは手切れ金なのではないか、とふと思いました。「お年玉あげるから何かあったら助けてね」「お年玉あげるから何かあっても知らないよ」と思っているのでしょうか。まあ思ってはいないでしょうが、成人してからのお年玉には裏があるのではないか、と思ってからはどことなく貰うのが怖い。

「来年からはいらないよ」と切り出したいところですが、「とにかく貰ってくれ……」と言われるのが怖いですし、また「お年玉いらないから、車を買うのにお金を貸して…」と言い出しそうな自分も怖い。

結局、家族以外からお年玉を貰うことは無かったのですが、ほっとしてしまいました。バイトの固定収入もあるし、もうあげる立場なのかなあと思うと、他の人はどうしているのかが知りたいです。学生はセーフでしょうが、今働いている友人はどうしているのでしょう。地味ながら気になります。気になる。気になる。

05/01/27

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