秋田の方言メモ/#36から#40まで

#36「ねねね」と「でがさねね」の狭間で

しばらく更新ができず大変申し訳ありませんでした。

ちょっと忙しくなると、どうしても睡眠時間を削る必要があります。あまり好きではない徹夜もしなければならなくなります。もっと効率よく物事を処理できるといいのですが、その人の性格というものもあるでしょうから結構難しいものですね。

徹夜をした朝に風呂に入ることが多いのですが、徹夜をするくらいなので時間にゆとりが無く、風呂に浸かりながら同時進行で歯磨きもしています。その時に歯磨きの動きだけで心臓がバクバクしてきて、更に水圧で胸がうぅって苦しくなる、爽やかな一日の始まりです。

そして徹夜した日の夜にはサークルで運動運動……、もしくはバイトバイト……。そして部屋に帰ってきてやるべきことをこなせないうちに就寝。完全な悪循環ですね(汗)

ねね

ねねね

ねねねね〜

これは意味を持った秋田弁のフレーズです。「ねね」は「寝ね」を指し、「寝ない」という意味になります。「ねねね」は「寝なければならない」、「ねねねねー」は「寝なければならないね」となります。「ねねねねー」はちょっと苦しいですが、こう言えなくもありません。

秋田県民の感覚では「ねねね」が通じないのはなんとも不思議な感じです。こんなに眠たそうな顔をして「ねねね」と言っているのですが、やっぱり通じないものでしょうか。何度も提言していますがこういった「秋田弁と標準語の境」にある言葉には注意をしなくてはなりません。通じていると思っても通じていないことがままあるので。

……ねね」(標準語訳は「……しなければならない」)というフレーズは非常によく使います。秋田で暮らすのだったら毎日のように使うと思います。「さねね」(標準語訳は「しなければならない」)、「かねね」(標準語訳は「食べなければならない」)、「行がねね」(標準語訳は「行かなければならない」)などなど。長い言葉を短く表現できるということはとても使えるということです。

」(標準語訳は「食べなさい」)

」(標準語訳は「食べる」)

どさ」(標準語訳は「どこに行くの?」)

ゆさ」(標準語訳は「温泉に」)

以前誰か(多分タモリ?)がテレビで言っていたように、上記のような秋田弁の短いフレーズが飛び交っているわけです。楽ですから。

さて話は変わります。

あー、あれもでがさねね」(標準語訳は「あー、あれも完成させないといけない」)と言いたいところですが、仙台では通じませんでした。「でかす」という言葉は標準語にもあるのですが通じませんでした。「でがす」は「完成させる」という意味です。これを私が好んで使っているのは独特な意味合いが強いと思っているからです。

「完成させる」や「仕上げる」という言葉だと、「完成」というところに重点が置かれているために「取り掛かろう」という意味が薄れてしまいます。そして「完成させる」という意味だと一気に完成させなくてはならないような気になりますが、「でがす」だと少しずつ完成させても構わないような感覚です。

かといって、「やる」では「完成」という意味が薄れ、具体的な動作のイメージが浮かびにくいですね。「宿題やらなきゃ!」と「宿題でかさなきゃ!」では、後者の方が期日に追われ焦っている様が浮かびますが、前者は無味乾燥なイメージがします。

方言は生活の言葉です。ですから口語が多く、挨拶の言葉が多く、ローカルなネタが豊富に含まれています。その地域の人びとに密着したものです。ですから他コミュニティーの人に通じないのは当然です。内輪ネタのようなものですから。

そこで、他コミュニティーの人と交流する必要がある場合には標準語を使うことになりますが、語彙が貧弱で通じないというのはとても情けないことです。語彙というのは難しい言葉を求めることだとも、知識のひけらかしだとも思っていません。実際そう捉えている人がいるとしたら間違いだと、私はそう感じます。言葉一つ一つに感覚の違いがあるから、たくさんの言葉があるのだと思っています。

私の場合、英語を勉強することでだんだんとこのことが分かってきました。「見る」という意味の簡単な単語だけでも「see」「look」「watch」と三種類あり、これらの感覚はかなり違ったものです。これは中々の好例だと思います。

「でかす」というたった三文字の単語ですが、計り知れない背景があって、その感覚を伝えたいがためにこれを使うのです。「やる」を使うのは何だかもどかしいと感じるのですが、「でかす」を知らない人には仕方がないので「やる」で対応します。

そして語彙があまり無い人にとっては「語彙」という言葉それ自体もちょっと敷居が高いようで……。「語彙」「ボキャブラリー」という言葉を知らない人にこれらのことを伝えるのは骨の折れる作業ですね。感覚は本当に語彙のある人でないとなかなか伝えられません。「大きい」という言葉の意味を「大きい」という言葉を使わないで説明することが困難なのと同様に。

04/11/23

#37ねねばねはー

最近このサイトへリンクして下さったサイトや、このサイトの内容に関心を持って下さる方を見かけることができるようになりました。今までカウンターは1日でいくらかは回っていたのですが訪問者の反応が中々無く、「つまんね〜」とか「使えね〜」とか思われているのかと被害妄想の日々でした。某大手検索サイトへの登録にも失敗したようですし。月並みな言葉ですが「頑張ろう」と思えるようになりました。皆さんありがとう。

ただ、私が所属しているサークルの方にこのサイトがばれてしまったようです。現実の私を知っている方に私の内面を晒すというのは些か恥ずかしいのですが、何とか耐える必要の無いどっしりと構える性格になるまで耐えてみたいと思います。ちょっとややこしいですが「まあ閲覧は仕方ないよ」ということです。プライベートの私を知ってしまってもどうか否定的な目で見ないで下されば幸いです。些細なことでマイナス思考のスパイラルに陥りがちですから。

気を取り直して、頂いたメールの一部をご紹介します。前回の内容に関してのご感想でした。

私は「ねねばね」って言います。「明日学校だがらねねばねは〜」と。同意を求める?みたいな時は語尾が”な”になります。「ねねばねな〜」と。どうも私の地区は語尾に”な”か、”は”がつくみたいです。んだでな〜(そうだよね)、知らねは〜(知らないなぁ)などなど「最後に”な”つけんのやめなよ」と言われた事があります。秋田の友だちと喋ってる時に。

……ねね」は「……しなければならない」という意味だと紹介しましたが、「……ねばね」でも「……しなければならない」という意味になりますね。確かにその通りです。これにはついうっかりしていました。

ねねばねなー」と「ねねばねはー」は私にとっては若干違う意味になります。前者は「寝なければならないよねー」という意味になりますが、後者は「もう寝なければならない」という意味になります。「明日学校だがらねねばねはー」は「明日学校」があるから「もう寝なければならない」となるのですね。

次に語尾について。

」と「」は聞いたことがあります。ですが、私はそれらよりも「」を頻繁に使います。「ねねねでー」「ねねばねでー」「んだでー」「知らねでー」といった具合です。

この語尾は地方によってかなり異なる上、何気なく口にしてしまうのでとても面白いものです。様々な地方の出身が集うと、驚くほど話を特徴付けることになります。

岩手出身の友人は「さー」とよく言います。これは岩手地方の方言なのかは分かりませんが、こう話すのが印象的です。青森の津軽地方出身の友人は「……はんで」と言うそうです。「……はんで」はそのものズバリなので、言いにくそうに「……だよね」と言っているのでちょっとかわいそうです。兵庫出身の友人はどこでもいつでも誰にでも「……やん」です。関西弁は比較的市民権を得ている、といいますかあまり違和感が無く話されているのでこれはうらやましいです。こんなところでしょうか。

更に最後に”な”つけんのやめなよについてちょっと感じたことを。

以前地名はその地の人のものではなく、その地名を目にしたり口にしたりする皆のものということを述べましたが、この「地名」を「言葉」に、「その地の人」を「その言葉を言う人」に、それぞれそっくり置き換えることもできると思います。

つまり何を言いたいかというと「対する人によって使う言葉は変えなくてはならない」ということです。本人が気持ちよく話しているつもりでも、聞いているほうが不快……とまではいかなくとも、違和感を感じてしまったら話している方の負けでしょう。

ですから言われた以上、その人に対しては話す言葉を変えてみてはどうでしょう。

実際、私もすいませんと言われるのが苦手です。なぜかは分からないのですが、違和感が沸々と湧いてくるキーワードです。また人によってこのNGワードが異なるので対処が結構難しいですね。話し手と聞き手の双方が。

よく例えられるのですが、会話はキャッチボールです。もし相手がノーコンで変な球を投げてきても平気な顔してキャッチし、相手の胸めがけて真っ直ぐ投げる。そして自分が相手よりもキャッチボールが上手だと覚らせない程何気なく実行している。これが理想でしょうか。

私もさっさと相手の手の内になっている青二才を卒業したいところ。まあ希望はでっかくね。

04/11/29

#38たこたこ

マイヤヒーというフラッシュを見つけました

タモリ倶楽部の空耳アワーのコーナーのように、海外の音楽を日本語のとある言葉で置き換えてしまったというものです。歌詞と映像の組合せが絶妙で、何とも言えない脱力感がやってきます。

このフラッシュで思い出したのが指スマです。

手をこんな形にして遊びます。協力してくれたIくんありがとう。一人でこの指の形をつくって撮影できないと気付いたときには絶望したけど、君のおかげで今は溢れんばかりの希望でいっぱいです。

私の出身地方では「たこたこ」というゲームで、「たこたこ2!」のように言うんです。高校のときでも誰もが「たこたこ」と言っていたので結構広い範囲で浸透している呼び名なはずです。

ですが現在の私の周りには「勝負2!」と言う人もいれば、「いっせ〜の2!」と言う人もいれば、「ボンバー2!」と言う人もいるんです。地方によって掛け声はかなり変わるにも関わらず、肝心の内容は全く同じ。調べてみると、テレビで放送されたのが影響したのか「指スマ」で検索してヒットするのが多かったように思います。改めてメディアの影響力は大きいものだと実感しました。

「じゃんけん」にも同じような傾向が見られます。ローカルな呼び方が結構あります。「じゃんけんポン」とか「あいこでショ」とか何とか言うでしょうが、「じゃんけんショ」という言い方や「あいこでポン」という言い方も聞いたことがあります。

検索してみるともっと変わった呼び方もありますね。「ちっけった」とか。小さいころに何で見たり読んだりしたのかは分かりませんが、確かに頭の片隅に残っているフレーズですね。もしかしたらその頃から今のように変わったことへ興味を持つ子どもだったのかもしれませんね。今は面と向かって「変わり者」と言われます。面と向かって。

前々から全国で統一されているのが不思議で仕方がありませんでしたが、数ヶ月前に加藤茶がテレビで「8時だヨ!全員集合で『最初はグー』が広まった」と言っていて解決しました。実際発生したのはずっと昔でしょうが、統一されたのはごく最近なのでした。最近といっても私が生まれるずっと前の話ですが、一応テレビが普及した以降の話です。指スマと比較してもその普及度からローカルな呼び方も多数見かけられますね。これも嘗て統一されていなかった時期があったということです。

こういった言葉遊びは子ども達の想像力を掻き立てます。何かをちょっと弄ってはわっはっは。また弄ってはえっへっへ。「へっぷー」とか「ねんねーん」とか小さいころは私もよく言っていたと思います。その言葉自体には何の意味も無いんですが、何かへまをした友達に「へっぷー」とか言いませんでしたか?

小学生くらいの子どもたちとよく接する機会のある方はよくわかるでしょうが、どうでもいいようなことを心から楽しそうにやってくれるんです。紅茶のティーバックを3つ(その上「レモンティー」「シナモンティー」「アップルティー」と違う味)一気にカップに入れてお湯を注ぎ、においを嗅いでみたり、おそるおそる飲んでみたり。満面の笑みで本当に楽しそうでした。私は今でもそんなタイプですが、子どものころはもっと楽しかったんだろうなと。バナナの皮を剥いて割り箸に刺してバナナアイスを作ってもそこまで楽しくはできません。「へぇー」と無駄経験へ一応の満足反応を示すか、「うーん」と自分がした行動にさも意味があったかのように感慨にひたるか、「うん」と自己満足に陥るか。無条件に楽しさが返ってくることはあんまりありません。

子どもたちが大いに伸びるのにはこの楽しさが大事だと思っています。様々な子どもたちを見てきましたが、何をしても楽しそうじゃない子っているんですね。何をすれば楽しいのか、何をするのが好きなのかをを訊ねても返答に困ってしまう子。もっとずっと小さな頃にたっぷり愛情を注いであげれば解決できたはずなのにと思ったのでした。「お母さんあのね」と言えばお母さんが自分の楽しさを増幅してくれる。そしてお母さんがいなくても自分で楽しさを増幅させる術を自然と学ぶ。三つ子の魂百まで。ああ取り返しがつきません。

うわ。すごく暴走していたので軌道修正。

既に形あるものをちょっと変更して使うということを子どもはやりがちだということ。そしてそれをただ何となく面白いと思うこと。ここまでお話しました。

私の地方では「たこたこ」ではなく「いかいか」もありました。その名の通り1人で指を10本使います。「いかいか0」から「いかいか20」まであるので2人でやっても中々終わらない駄ゲーム。きっと「たこたこ面白い!」と思った誰かが「いかいかもできるんじゃ?」と思って始めたのでしょう。

この発想はやっぱり大事でしょう。この場合に限り失敗していますけど、たくさん思い浮かんでそのうち1つでも当たればOKです。今の子どもたちは少なくともただ漫然と受身の人になるのではなく、オリジナルを創ろうとする意欲を持った人になって欲しいと思います。本当に学力の低下は目に見えています。「ゆとり」って時間そのものだけを指すんじゃなく、私のように妄想を繰り広げることができる環境という意味合いが大きいような気がしました。

指導要領の総合の授業では発想とかロジックとかをやって欲しいと思います。今、総合の授業では数学をしているそうな。うへぇ。

04/12/09

#39秘密の冬

女の子たちは隠し事が大好きなのです。と、知ったような口ぶりから始まりましたが、かなりの人はこの考えに同調していただけるのではないでしょうか。

とある秘密のノートがサークル内で誕生しまして、その輪の中に参加させてもらい、僭越ながらこれまた知ったような口ぶりで文章を書き込ませて頂きました。私自身、秘密ということを考えると些かにんまりとしてしまうのですが、女の子たちはどうやら私以上ににんまりとしてしまうようで、その様子を見てなかなか面白いなあと感じています。

私も小学校の頃には女の子たちの輪に混じって交換日記を書いたりなぞしていました。ちょっと強引に輪に入れてもらった覚えがありますが、いやはや迷惑をかけました。あのピンクの何かのキャラクターもののノートは今はどこにあるのでしょうか。当時のみんなは日本全国にバラバラになってしまいましたが、誰かの実家の机の引き出しの中にポツンとあったらいいな、なんて。

以前も書きましたが、小学生・中学生の頃は今以上に自分に自信があったなあと思います。どこからその自信が湧いてきていたのかはさっぱり分かりませんが、自信があったら中身が伴っていなくとも色々挑戦できて楽しかったな、と。

女の子たちが秘密を好きなのは本能なのかな、と中学生の頃かそこらに思ったことがあります。男は狩りに出かけ獲物を仕留める、女は家庭を守る。こんな行動様式が遠い昔にあったために、男は自らの弱さを晒さないために秘密を頑なに守る、女は社会との調和を重視するために秘密を共有する。「地図を読めない女…」という本にもたしか似たようなことが載っていたはずです。

そして私は以来「秘密」というものに大いにお世話になっております。女の子と仲良くなるために「ナイショだけどね…」「秘密なんだけど…」「コレ言ってもいいのかな?実は…」なんて言葉を使わせていただいております。おかげさまでほぼ無意識のうちにこの言葉がこぼれるようになり、計算高いのに自然な姿で振舞うことができています。同じ女の子に対して同じ台詞を言う場合、言う方が当社比2倍の効果が期待できます。この他にもあるのですがあまり露骨に公開すると私の効果が薄れてしまうと思いますから止めておきます。可能性の極限をとると、杞憂に終わる可能性が1に収束しますけど。

さて。そのノートは秘密のノート(少なくとも私はそう思っています)なのですが、私が書いた内容は別に公にしてもいいようなごくごく当然の話です。それは冬のこと。

ここ仙台の冬は秋田に住んでいた頃に比べて幾分マシですが、時折雪が降ったり、時折冷え込んだりして大変なことになる場合があります。今度は「実家に帰るときには水抜きを欠かさずやろう!」なんて知ったような口を書くつもりです。

私にとっては「そのノートが秘密のノートであること」それ自体が価値のあることではなく、秘密を口実に仲良くなることです。いやいや違いますよ(笑)

真面目に書きますと「綴ること」です。「綴る」とか「紡ぐ」とかいう響きが好きですし、その実践も大好きです。みんなでわいわいと綴っていくこと、それだけで素晴らしいことではないですか。

そのノートには「初雪が降ったので、特に原付の人は運転に注意しよう!」と書いておきました。詳しく言及することはありませんが、私に当てられた役割期待行動を十分に果たした書き込みといえます。

雪にも色々な雪があります。

雨雪に始まり、粉雪に変わり、ボタ雪に変わり、ザラメ雪や根雪が誕生し、吹雪の2月が来て、気が付けば「バッケ」(標準語訳は「ふきのとう」)の「おがる」(標準語訳は「生える」)春がやってくるのです。

吹雪のことを秋田弁では「ふぎ」と言います。雪国の冬を経験した方なら分かるでしょうが、それは凄まじいもので「視界が360°真っ白」です。「ふぎだまり」(標準語訳は「ふきだまり」)もあり、車の運転は大変なものとなります。

やっとの思いで家に帰ると、祖母が「あびもぢ」(標準語訳は「あんびん餅」)を用意して待ってくれています。そして「ズボンの裾、凍ってらで」(標準語訳は「ズボンの裾、凍ってるよ」)と言われて気付く有様。家が暖かく感じたのは、その部屋の温度が外に比べて高かったからだけではなかったでしょう。

雪囲いをして冬に備えるのはじいさんの役目、吹雪の日に家にじっと構えて孫を待つのはばあさんの役目。とても助かりました。

秘密のノートに冬のことを書きながら、ふとどこか遠い冬に思いを馳せる私。やっぱり女の子が秘密が好きなのは…と中学校のときの考えを再確認するのでした。とてもきれいなおもいで。

04/12/18

#40わえもん主義

前の車の運転席の後方、リアガラスに黄色い何かがぶらぶらしていました。ちらっと眺めると「赤ちゃんが乗っています」の文字が。そして、私は赤ちゃんが乗っているから注意しようと判断し、そう運転しました。

そしたら往来の激しい青葉通でウインカーも出さずに急に止まり、路上駐車をしたのです。何だろうと思い、横をちらっと見ると乗っていたのは40歳くらいの女性が1人。チャイルドシートもありませんでした。

その女性には失礼かもしれませんがこう邪推してしまいました。「赤ちゃんが乗っています」なんて真っ赤な嘘だったのではないかと。そして「赤ちゃんが乗っています」を口実に荒い運転を続けていて、「事故に巻き込まれるのは御免被ります」なんて気持ちでいるのではないかと。

もし仮にそう思ってそのステッカーをぶら下げて運転していたのなら、どれ程残念なことでしょうか。本当に「赤ちゃんが乗っています」という意味を込めて運転している人にとってはとんだ迷惑です。

私は先入観というのがあまり好きではありません。行動を制限するだけではなく、柔軟な考えをも制限してしまうこともあると思っているからです。その好例となるような出来事だったなあと振り返りました。

こういう人を「ごんじょっぱり」(標準語訳は「強情っぱり」)や、「わえもん主義」(標準語訳は「自分がよければいいという主義」)であると言います。つまりは嫌われ者ということです。

こんなことを時折経験するのはちょっとがっかりです。行間から読み取れるでしょうが、私は赤ちゃんも子どもも大好きなので、このステッカーをつけて運転している人にはやはり注意しようと思っています。ところがもしかしたら同じようなことを経験して「ったく、ふざけんな!信用ならない!」と思ってしまう人もいるのかもしれません。そう思う人が出現してそのステッカーの下、子どもを乗せて運転している車が危険に晒されることがあるんじゃないかな、と大変心配しています

「赤ちゃんが乗っています」という主張をするのであれば、やっぱりその言葉通りの状況であるべきでしょう。ですから赤ちゃんが乗っているときにはステッカーを貼る、そうで無い場合はステッカーを貼らない、と明確にしようと思いました。

でもやっぱり「赤ちゃんが乗っています」をアクセサリー感覚で貼っている人もいるのかもしれません。どうしたらいいものかと思いましたが、面白い事実が分かりました。と同時に、全ての謎が解けました。「赤ちゃんが乗っています」というステッカーには「注意して!」という意味は無かったのです。

このステッカーは、「事故が起こった際に運転者が亡くなったり、意識不明になったりしたときに、同乗している赤ちゃんも助けて下さい」ということをレスキュー隊に伝えるのが本来の意味なのだそうです。確かに「赤ちゃんが乗っています」から「注意して!」という発想はちょっと曲解のような気もします。誰が事故に巻き込まれても結局は1人の人間として同じことですし、チャイルドシートに固定されている赤ちゃんが運転の大きな差し支えになるとも思いません。

現在は助手席に赤ちゃんがいなかったら赤ちゃんはその車に乗っているはずは無いと考えてもいいでしょうし、もし助手席に乗っていなかった場合は運転者の責任です。つまりはもうこのステッカーはアクセサリーとしての意味しか持たないということになるのでした。

といいつつ私もステッカーを貼っています。それはアクセサリーとしての意味合いを込めてです。「最大積載量 積めるだけ」「最大乗員数 乗れるだけ」というステッカーですが、これにも「ふざけるな!」という意見があるでしょう。過積載が問題となっているトラックにこのトラックが貼ってあったらちょっと許されなさそうですが、一応バイクなのでブラックジョークとしてお許し下さい。「最大積載量 積めるだけ」「最大乗員数 乗れるだけ」というのは当然法律が指す最大の値です。

先入観は人の行動を制限しがちです。「赤ちゃんが乗っています」は先入観を生み易く、「最大積載量 積めるだけ」は先入観を生み難いはずです。これは具体的な情報が私たちの脳を刺激し、今まで経験してきたことで得た何かを引き出しから出させるからだと思うのです。

「赤ちゃん」というと「かわいい、泣く、弱い」などといったイメージが引き出され、具体的に何をすればいいかが分かり易いのですが、「最大積載量」という無機質な響きからは特に何も感じません。前の車が4tだろうが10tだろうが、運転している私にはさほど関係がないのです。10tトラックと軽自動車だったら前者をより注意はしますが、それは「最大積載量」という物差しで判断したのではなく、もっと漠然とした「トラックだから」あるいは「大きいから」という理由で注意をすることになっているはずです。

つまり「最大積載量」うんぬんと書かれてあるステッカーを見たとしても、運転には全くと言っていいほど影響が無いわけです。気持ちの問題でしょう。過積載で酷い経験をした方には圧し掛かり、私のような感覚の人にはジョークとして映るはずです。北京やマニラなどで見かけられると思われる大勢が乗ったバイクがこのステッカーから浮かぶ効果を意図してはいるのですが。言っちゃった。

こう長々と書いたのはステッカーを貼ってしまいながら、もう剥がせないとある若造のいい訳です。正当化している自分こそが一番の「わえもん主義」だったりして。

04/12/19

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