秋田の方言メモ/#26から#30まで

#26「じぇんこ」と「だぢんこ」

前回のお話の中に「じぇんこ」という言葉が出てきましたが、今回はこのお話をしたいと思います。「じぇんこ」とはお金のことです。

家族と買い物に行くときには、父か母が「じぇん、おろさねね!」(標準語訳は「お金、おろさないといけない!」)、「じぇん、持ってらが?」(標準語訳は「お金、持ってるの?」)とよく確認作業に入ります。「じぇん」という言葉から「銭」という言葉をイメージできますが、「じぇん」は小銭だけを意味するのではありません。お札にも使える言葉です。

おそらく「じぇんこ」は「両者が秋田弁を話すと知っている間柄」でないと使う言葉ではありません。つまりはある程度親しい間柄にしか使わないということですが、私が仮に秋田の友人にお金を貸してもらうとすると、「金貸してけれ」(標準語訳は「金貸してちょうだい」)と頼むことになると思います。もちろん借りるのは大金ではなく、数千円くらいですよ。また、当然ですが諭吉さんを借りるときには「金貸してけれ」なんて言いません。もっと丁寧な言葉で頼みます。諭吉さんを人から借りた覚えが無いので、どう頼んだのか、あるいはどう頼むのかは分かりません。ぐだぐたと長くなりましたが、私くらいの年の人は「じぇんこ」という言葉を使わないということです。

じぇんこ」が入っているのはサイフですが、私の祖父母はサイフと言いません。発音が違うだけなのですが、「しゃふ」と聞こえます。私の両親は「しゃふ」とは言わず、普通にサイフです。滑舌の問題もあるかもしれませんが、祖父母くらいの年代の人は皆「しゃふ」と言っているように思います。

余談ですが、滑舌という言葉がその人を試しているように感じてしまいます。「俺を『かつぜつ』としっかり読めるか!読めるならお前は『滑舌』だよ!」という感じで紙面にあぐらを書いているように。「カツレツ」となりがちな私はついそんなことを思ってしまうのです。とりあえず「かつぜつ」よりも、目先の「豚カツ」が大事なのは私だけではないでしょう。アナウンサーの方には死活問題でしょうけどね。

小さい子どもの頃ですが、親戚の家に遊びに行くと、決まってその家の祖父母が「じぇんこ」をくれました。「このじぇんこでアイスでも買って、け」(標準語訳は「このお金でアイスでも買って、食べなさい」)と言いながら「じぇんこ」を子どもの手に握らせ、ものすごい握力で押さえるのです。そうすると、親は「あや〜しかだねんしごど」(標準語訳は「あらあら、申し訳ございません」)とお礼を言います。そしてそのお金はチェックされ両親の懐に収まることになります(涙)

そうやってもらったお金は「だぢんこ」といいます。「お駄賃」のことですね。実際にはアイス以上のものを買える金額がもらえるのですが、「アイスでも……」とあえて言うのは、「このお金じゃアイスしか買えないでしょうが」といった、ある意味で自分をへりくだっていることを表現するためですね。あと、なぜ子どもの手にお金を握らせ、その上からぐっと握るんでしょう。特によくしゃべるばあさんの握力には私もびっくりでした。標準語でお駄賃をもらったことがありませんから、どのように言うのか分かりません。「だぢんこ、ける」(標準語訳は「お駄賃、あげる」)は一応このような訳にしておきます。

だぢんこ」のほとんどを家族税として徴収されることになると、本当にアイスしか買えなくなります。「このことを予期して『アイスでも……』と言っていたのかもしれない」と年寄りの知恵と経験に裏打ちされた表現に感服しながら、「ババヘラ」でも買うことになる私なのでした。

04/09/23

#27花札を、てんきる

花札を知らない方はちょっと困ってしまう内容ですが、なんとかお付き合い下さい。

最近ルールが人によって違うので、花札で遊ぶのがなかなか大変だということに気づきました。札自体の点数が地方によって違うということはないのですが、ローカルルールが多すぎますね。私の知っている限り聞いたことのない、「月見に一杯」「花見に一杯」という役に苦しめられています。むしろその役がない方がマイナーなのかもしれませんが、「マイナーから見るとメジャーの様式こそマイナー」と思ってしまうのはレイベリングの好例ですね。

私の地方(といいますか、私の周囲)ではこだわった配り方をします。三人で遊びますから、三人が輪になります。カードを混ぜる役は前のゲームで負けた人か、じゃんけんで一番負けた人になります。その人がカードを混ぜて、そして全部を揃えて真ん中に置きます。多分不正を防止するためだと思うのですが、置いた札を、混ぜた人以外二人が一回だけ切ります。そして混ぜた人が中央にカードを三枚表向きに置いてから、皆に三枚ずつ裏向きに配ります。また中央にカードを三枚表向きに置いてから、今度は皆に四枚ずつ裏向きに配ります。これで準備は完了です。

親(前のゲームで一番勝った人か、じゃんけんで一番勝った人)からはじまりまして、あとは一枚出して一枚めくるというおなじみのスタイルです。次の人はプレイヤーから見て右側の人です。真上から見ると時計と反対周りに進んでいくことになります。

点数については上記のように問題ないのですが、役が違うのです。私の地方では「ふけ(40点)」「五光(30点)」「四光(20点)」「猪鹿蝶(20点)」「赤短(20点)」「青短(20点)」「雨流し」がありますが、「雨流し」の認知度が異様なほど低くて困っています。「雨流し」というのは11月の札である「柳を全部揃えると発生する役」で、「『ふけ』以外のその場の全ての役を無効にする」という他の役とは一味違った役です。なので柳のことを「」と言ったりもします。私はこう言います。あと「すすき」のことを「坊主」と言いますが、この認知度は比較的高いようです。

書いていてふと思ったのですが、なぜ11月が柳なのでしょうね。柳の花が咲くのは春ですし、一番の見ごろは春だと思うのです。他に11月にふさわしいものが無かったからなのでしょうか。12月の桐は「キリ」なので納得できるのですが。

両親とは花札でよく遊んでいたように思います。よく遊んでいたのですが、どうしても勝てない人が三人ほどいました。母方の祖父と、友人のSくんと、Sくんの父です。強い人にはやっぱり強い理由があって、それなりの知識があったようです。「アヤメに手出しゃぼんぼらけ」(標準語訳は「アヤメに手を出すやつはバカ」)「雨持ってらばタンばりででくる」(標準語訳は「柳を持っているなら短(赤短や青短)ばっかり出てくる」)と野次ってくるのでした。心理戦に非常に強く、翻弄されてしまうのです。野次もまたキレがありましたし(笑)

アヤメは0点、0点、5点、10点と点数が低いのみならず、役にも絡まないのでそれほど重要視するカードでもなかったようです。具体的にはアヤメの10点を持っているよりも、サクラの0点の方が赤短や20点に結びつくこともありますしね。10点でも結局取るときには二枚ペアで取るわけなので、最高15点にしかなりませんし。

また「雨流し」を狙っているときは「赤短」「青短」はさほど重要ではなく、大事なのは点数なので、5点にしかならない「赤短」「青短」を捨てていくということですね。なぜこれが野次なのかというと、「短」と「痰」を掛けているからです。ちょっと汚い(汗)

実は一番言いたかったのは秋田弁のことなのですが、なんとスルーしてしまいました。カードを混ぜることを「てんきる」と言います。地べたに置いてかき混ぜるときにはあまり使いません。主に、手の上で揃えながらしゃっしゃっと混ぜている様子を「てんきる」と表現するのです。これは守備範囲の狭い言葉で、「てんきって!」(標準語訳は「カードを混ぜて!」)と言えば「トランプや花札のようなカードの類を、手の上でしゃっしゃっと混ぜること」を頼んでいることに決まっています。なので麻雀をしているときに「てんきる」という言葉が現れることはありません。

てんきる」の「きる」は恐らくカードを切るときの「切る」のことでしょうが、「てん」の意味が全く分かりません。「天」「点」「転」……、「てん」という音の語が多すぎます。柳の謎といい、「てんきる」の謎といい、やっぱりカードにはマジックの種が仕込まれていたんですね。

04/09/24

#28大貧民

前回の続きに近い内容となっています。

花札の他に、トランプで遊ぶことも多かったです。もっぱら「大貧民」で遊ぶことが多かったですね。このゲームを知ったときに「大貧民」と覚えたので、「大富豪」という言い方には若干抵抗があります。「大貧民」は「大富豪」と同じゲームだと分かっているのですが、どうもむずむずしてしまいます。

私が中学校の頃、「大貧民」でのカードの強弱は3が一番弱く、2が一番強いということでした。ですが、「スペ3」というルールがあり、2をスペードの3で切ることができるのです。そして革命は同じ種類のカードを四枚場に出すと成立し、カードの強さが逆転するのです。この場合「スペ2」というルールが適用され、3をスペードの2で切ることができます。

一風変わっていますが、ジョーカーの強さはK(キング)とA(エース)の間でした。ですから単品としての強さはそれ程でもないのです。また、ジョーカーは他のカードの代わりとして使うことができませんでした。あくまでもKとAの間の強さのカードなのです。それでもジョーカーが強いのはスペード、クラブ、ハート、ダイヤの4つに対し、階段を作ることができるからです。階段とはハートの7、ハートの8のように同じ絵柄が連番だった場合に一度に場に出せますが、その出し方のことです。

そんなこんなで高校に進学します。一応進学校でしたので、休み時間に遊ぶということはありませんでしたが、昼食後などに「大貧民」をして遊ぶことがまれにありました。ここでカルチャーショックを感じることとなります。

まずジョーカーの扱いが変わります。強さが最強のカードとなり、他のカードの代わりとして使うことができるのです。スペ3は2に対し使うことができる技でしたが、ジョーカーには一切無効。ジョーカーを単品で出すと場が流れます。

そして新ルールの追加です。8を出すと場が流れる「8きり」、J(ジャック)を出すとカードを出す強さが逆転する「11(イレブン)バック」、階段を四枚以上出すと革命が起こる「階段革命」と増えます。また、中学校までOKだった二枚のみの階段は禁止です。三枚以上からOKになります。

なかなか慣れず、大貧民争いが熱かったほどよく負けました。新ルールを受け入れなければならないのは私のルールが小数派だからです。ゲームごときで「多数決は一見その場の総意であるが、少数派の意見を完全に無視する非道なものだ」とまでは思ったりはしませんでしたが(笑)

本題に入ります。

カードゲームは「『3が常に最弱で2が常に最強』というのはずるいから、スペ3というルールを使おう」のようにその場であっさりと決めることができます。ですからもの凄く狭い地域(小学校や中学校単位)で一つのルールがあったのです。

「ローカルルール」というのは多数派から虐げられがちなものです。しかし「ローカルルール」をこよなく愛する人たちはそのルールに馴染んでいるのです。もしくはその「ローカルルール」がよりゲームを面白いものにすると思っているから、惚れ込んでいるのかもしれません。「スペ3」もある場所でぽつんと生まれたのでしょうが、面白いと思った人たちがどんどんと採用して広まったのでしょう。

そして優れた「ローカルルール」がぶつかりあい、「多数の『ローカルルール』があるため、ある程度『メジャーなルール』で統一しないとゲームができないし、『ローカルルール』になじんできた人はある程度『メジャーなルール』に従おう」という流れが生じるのもまた当然と言えます。

まさに「方言」と「標準語」の関係と同じなのではないでしょうか。

私が声を大にしていいたいのは、「ローカルルール」がその地域、その条件においては必要なことが往々にしてあることです。「大貧民」を例に取ると、短い休み時間で効率よく遊ぶために、一人当たりトランプを6枚だけにして遊ぶこともできますが、そのルールが休み時間という条件下では必要だったりするのです。

それと同じように「方言」がその地域において息づくのも、その地域ではその言葉が無ければいけないからなのです。「英語圏」には鍵に当たる言葉が多いけれども、日本には鍵に当たる言葉が少ないというのはそのことを上手く説明できる好例です。

きっと「自分と他の人とのしゃべる言葉の違い」に接する前に、「自分と他の人とのカードゲームのルールの違い」に接する機会があったのではないでしょうか。皆さんお心当たりはありませんか。

04/09/25

#29CM

ローカルCMの話題でも。

あねっこ餅

ぽっちゃりふわふわ、はくすんどうの、あねっこもぢというゆっくりとしたテンポのCMです。博進堂は「はくすんどう」と聞こえます。

あねっこ餅」については以前もとりあげたことがありますが、一度も食べたことがありませんので何もコメントすることはできません(汗)

ハタハタ寿司

秋田名物、八森ハタハタ、男鹿で男鹿ぶりこ、ア〜ソレソレ……という秋田音頭の激しいリズムが特徴のCMです。確かハタハタ関係のCMだったと思うのですが、うろ覚えです。「ハタハタ寿司」は食べたことがありまして、感想を一言で表すと……「酸っぱい」です。酢がきいていてさっぱりとした味の寿司ですね。身体に良さそうな味ですが(実際非常によさそうです)、ですが実は……。

掲示板にも一度書いた内容ですが、改めて紹介します。うちの祖母はハタハタのことを「あぶらっけぐねさがな」(標準語訳は「脂っこくない魚」)と言います。白身の魚ですし。ハタハタを食べたいときに、祖母は「あぶらっけぐねさがな買ってこい!」(標準語訳は「脂っこくない魚を買ってこい!」)と小さい声で頼むのです。

今は見るかげもありませんが、ハタハタは非常に安く大衆魚として扱われていた時代もあったみたいです。ただ漁獲高も最近徐々に増えてはきているみたいです。でもまだまだ高級魚となっています。仮に明日から秋刀魚の値段が一尾1500円になったとしましょう。そうするとまあ普段買わないでしょうか、今まで馴染んできた魚ですし、時折食べたいという衝動に駆られることになるのではないでしょうか。ハタハタが食べたいけど、おおっぴろげに言わない祖母のいじらしい気持ちが笑えてしまいます。

そして「したらよ、買ってくる」(標準語訳は「そしたら、買ってくる」)と言っていつもハタハタを買ってくる父にも笑えます。たまに鱈でもフェイントで買ってくるとなお面白いのですが、そこでボケないのが父の性格です。たまに奇怪な行動で楽しませてくれるのですが、そういうところは真面目です。

ハタハタは「ぶりっこ」(ハタハタの卵)と「白子」が注目ポイントです。ただ、新鮮じゃないと全然と言っていいほど美味しくないんですよ。「ぶりっこ」は冷凍もののハタハタだと粘りが全く無く、「しね」だけです。あごが無駄に疲れていくのは正直困り者ですね。ボリボリボリ……。

金萬

リコ!金萬!ダメダメダメマス!リコ金萬キエロマス!というなぜかサンバのリズムのCMです。今もこのCMなのでしょうか。最近の秋田事情を知らないもので(汗)

今川焼きといいますか、大判焼きといいますか、そんな形。ちょっと甘さが強いですが、ある程度万人受けしそうな味です。個人的にこれは結構美味しいと思います。お茶請けにも無難なスタイル。定番のお土産。

お土産はいくらでもお取り寄せができますし、お土産よりも観光地がどうにかならんもんですか(笑) あえてこういう表現をしますが、陸奥の裏日本側なので立地条件がとても悪いです。どこぞの二番煎じでは「秋田」をどうにかしようというのは無理です(笑)

スキー場だけは最高だと思うんですけどね。客がいないのでリフト待ちは無いですし、コースは広いですし。仙台で一回だけスキー場に行きましたが、秋田の方がはるかにレベルが高いと思いました。でも今の人たちはイメージに影響されてきっと観光地もブランド志向なんでしょうね。秋田に来るくらいなら北海道に行っちゃいますよね、普通。

秋田にあるだけで、もう良いスキー場とは呼ばれないんですよね。最高水準でも穴場という哀しさがちょっと。

04/09/27

#30じらっと

おめなばじらっとしてらな〜」と母によく言われてきました。

じらっと」は大まかには「平気な顔をしている」や「黙っている」という意味です。ただ、それらのことがその本質ではありません。何かまずい状況に追い込まれたり、何かまずいことを仕出かしてもなお「平気な顔をしている」ということ、あるいは結構盛り上がってるのに「黙っている」ことや「知らん顔している」ことです。「クール」なことなのですが、それ程いい意味ではありません。「ノリ悪いなあ」の方がより近いです。

私は以前「人見知り」なのではないか、というお話をしました。でもどちらかといいますと、「人見知り」よりも「『じらっと』している」方のニュアンスに近いと思っています。自分を知ることがきっと一番ためになることだと思い、日記を付けてみたり、詩を書いてみたり、色々としてみました。ですがやっぱりよく分かりません。今もなお、暗黒の窓が大きく開かれています。ただ、自分の性格が単なる「人見知り」で説明できないのは確かです。

私は本当にまずい状況になる直前まで、特に何も話しません。今現在も何か言いたいことがあったとしても、特に何も言わないタイプのままです。

ただし、分かりかけていることはあります。自分は、一見相反するような気持ちを持っているようなのです。「自分の意見を持つこと」を強く望みながら、「他人の意見を受け入れる」ことを安易にしてしまいがちなのです。それは「他の人を大事にしようと思う」からで一見問題は無いようですが、ただその気持ちが強すぎて融通がきかなくなってしまっているようなのです。

このように基本的に二つの判断基準を持っているため、しばしば板ばさみになり、混乱してしまったり、萎縮してしまったりしているのでしょう。私の周囲のほとんどの人が「つかみ所のない奴」「不思議な奴」と思っているみたいですが、そう思われていると思うことがレイベリングを助長しているから深く考えるのは止します。

どうでもいいことは実にたくさん話しますが、人と秘密を共有することが本当に少ないのです。なぜあまり秘密を共有しないのかといいますと、自分がまっとうに評価されたことがあまり無いからです。前に、前にという気持ちが足りないので、まっとうに評価されることは少なく、またその気持ちを失い…、という負の連鎖、負のスパイラル。上辺だけの付き合いの人に分かってもらおうとまでは思いませんから、あえて言わないのです。今まではそう思っていました、今までは。

この前、高校時代からの友人と夜中ずっと話しこんでいるときに、「○○ってあまり自分のことをしゃべらかったね」と言われてどきっとしました。仲がいいからばれたんでしょうか、それともばれるから仲がいいんでしょうか。ただ、なぜか嬉しかったです。こいつは分かっていたんだって。分かってなかったのは自分なんだって。

私の言っているようなことを人前でちょっと話すと、基本的に「は?」という状況になります。でも、ちゃんと話しこむととてもよく納得してくれます。つまり、皆程度の差こそあれ、何かを悩んでいるのです。客観的に見ると、とっても些細なことを。悩んでいるのが普通。それを表に出さないのも普通。

「人見知り」だの、「『じらっと』している」だのは単なる言い訳です。話さえすれば分かってもらえるのです。それにようやく気づきました。自分で「自分は変わり者」とレイベリングすることで、他の人から見て私の敷居が少々高くなっていたのですね。

私は「じらっと」しているのではなく、「じらっと」しているふりをしているだけです。ひょうひょうとしているようですが、そういうふりをしているだけです。本当のところ心の中は些事でさえ、ぐるぐるしてしまいます。

例を挙げます。レジで「1580円」ですと言われて、「2080円」を出そうと「80円」を財布の小銭入れ部分から取り出して会計を済ませることをそつなくこなしますが、心の中では「『80円』を取り出すには少々手間がかかるけど、『420円』をレジの人にもらうのも手間がかかるし、どうしよう」と悩んだり、「『80円』をできるだけ速やかに取り出そう」と思っていたりするんです。傍から見るとごく普通で、無難にこなしているようですが、こんなことをあの短時間で考えて判断しているのです。

こんな私ですが、小学校低学年くらいには「お笑い芸人になろう」と思っていた時期もあります。当時は人と違う感性に絶大なる自信を持っていました。「きがねわらし」だったころのマシンガントークが10年以上の時を経て蘇るか、切り込んで行く姿勢が復活するか、それは自分次第です。

自信が無いと何にもできないし、何にもできないと自信を失う。

自信があると何でもできるし、何でもできると自信を得る。

ほら、答えは明らか。

04/10/08

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